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1998|02| |
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と、ここで日記書くのを止めないのが長く続いている秘訣(秘訣じゃない)
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掲示板っていう掲示板、最近みんな香ばしい気がする。プロバイダ責任なんとか法、じゃないけど、ネットの上の言動もきちっと記録して検閲して取れるものは取れるようにしたほうがいいのかもしれない。建設的な感じがない。ここから有用なネタだけ拾って生活のタシにするのが長年楽しみでもあり役立ちでもあったわけだが、どうにもこうにも最近ゴミしかないような気がする。マンションネタの掲示板とか巡ってもそう。情報の取っ掛かりが転がっていることはいるが、なんかどうでもいい貶しあい罵りあいばかりを見ると、それが自分の目当ての物件の板だったりするとうんざりする。こういう陰湿って言うかコミュニケーション力ないやつっていうかそういうのと一緒に住むことになると思うと憂鬱。
正直、ネットってコミュニケーションという角度から見ると、引き算すると大して役に立ってないと思うよ。得るものはあるけど差し引きが多すぎ。善良か中庸な人は表に出てこないし。そこでえらい大きい話なんか語られた日には笑止。まぁ、イラク人質の時からずっとそういう風に思うようになったのだが。
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金利とかの計算をしすぎて元気も出ないっと。少々お疲れ気味です。家を買おうか買わないか考えて10日で3キロ痩せるってどうなんだろう。
果たしてWEBSITEを作ることによって、どんな情報を発信したいのか?というところが良く考えられていないためにぶつかった壁であるような気がしてならない。勿論、子供の画像を載せることによって、悪用される、あるいは犯罪のキッカケになる、ないしは先の佐世保の事件の際におきたような、加害児童の写真がネットに流布する、というようなことへの影響は勿論あるだろうけれど。本当はもう一歩くらい引いて考えるべき問題である。
小学校がWEBSITEをつくって、何らかの情報を発信する。その中身として何が必要か、ということが全く考えられていないので、やれ子供の顔を載せるの載せないの、モザイクがかかっていると気味が悪いのという、非常に瑣末な問題で躓いてしまうのだ。たとえば、小学校のページを見る人というのは、どんな人なのだろうか、というその想像力がないのだ。この記事を読んでみて、いくつかの小学校のページを見てみたが、そこのところがずれている、いかにも作りきれなかった記念アルバムのようなWEBSITEばかりである。 サイト作りが流行り始めた頃によく揶揄の対象となった「うちの子」ページの域を出ていないと思う。
もっとも解せないのは、子供の写真についてはいろいろと言われている割に、教員の情報というのが全くOPENではない。修学旅行の記念写真だとか、学校行事の記録などはなにもWEBSITEでなくても良い。毎日子供たちを掴んでいるのだから、そしてその親たちを掴んでいるのだから、彼らにのみ確実に伝わるような方法で、いいものをつくったらいい。
肝心なのは、たとえばどんな方針で、どんな人が、どのような教育を行っているか、とか、私立の学校だったらどうやったらこの学校に入ることが出来るか、とかそういうことにフォーカスを当ててWEBSITEを作っていくことも一つの方法なのではないだろうか。そこに子供の写真がどうしても必要な理由はない。まあ、おそらく特に公立の学校などは、万事が万事横並びで、子供の写真でも載せなければ載せる物なんかない、というのがホンネだろう。僕が親だったら、そんな予算潰しの種に自分の子供の写真を使われたら、たまらないだろうなと思う。モザイクで消す、消さないの問題ではない。
WEBでの情報公開の先輩であるアメリカの、僕がホームステイしていた時に通っていた学校のページを久しぶりに見てみた。ページに何が求められているのか、それが極めてはっきりしている。どんな授業を、どんな方針で、どんな計画でするかが、行事の羅列でなくきちんと整理されているし、教員一人一人のメールアドレスまで、きっちりと載っている。こちらは高校なので、載せる情報の質も量も違うしすべて真似るべきだとは思わないが、少なくとも、「うちの学校のページに来る人は、いったいどんな情報を求めて来るのだろうか?」ということを考える姿勢くらいは、学んでもいいのではないだろうか。
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”お家騒動”は無事決着。体重が元に戻る日も近いと思われる。借りるであろう金額には眩暈がするが、色々考えてやっぱり僕らは今買ったほうがいいのかな、と思い、話を進めている。再来年の春に引っ越すことになる模様。先は長いが、少々締めてかからねば。
7月に異動になってから、渋谷にでたあとバスを利用して通勤している。しばらくは律儀(?)に小銭ニコニコ現金払いだったのだが、先月の給料日から「共通バスカード」なるものを買って通勤している。定期にしようかと思ったのだが、意外と割引率が低く、丸々週休2日だと現金で払った方が若干トクになってしまうような感じなのでカードにした。「共通バスカード」に似たカードとして良く使うのが地下鉄・私鉄の「パスネット」なのだが、「パスネット」の癖が染み付いている僕にとっては、5000円の「共通バスカード」を買うと840円分もおまけでついてくるのはすごく得した気分だった。今日も5000円の奴が残り少なくなったので、1000円のカードを買い足したのだが、やっぱり100円分おまけがついてきた。
それに引き換え、「パスネット」は1円のおまけもつきやしない。いままで、面倒な切符の買い替えもなく、私鉄→メトロ→私鉄とかでもするっと通ってしまうパスネットは便利だなと思っていたのだが、ちょっと見る目が変わってしまった。3000円5000円まとめて買っているんだから、1割くらいおまけしてくれても、などとセコいことを考えてしまうようになるから客というのは勝手なものである。それともパスネットには何かおまけできない事情でも、あるのだろうか。
そういえば、東京メトロ、という言い方にはなんとなく慣れた。けれど、他に何か変わったかと言われると、なにも変わっていない。
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もうすぐ強行遠足の季節である。あの事故のあと、去年は距離を短縮して、男子が夜通し走るのを止めてしまった。あれはお天道様が出ている間だけ走るのでは意味がない。今年も短いままなのだろうか。何かあったら、というのは分かるけれど、やるせない。
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こないだの週末に、初めて区の図書館に行った。図書館というのは高校生の時まではもっぱら勉強するフリをしにいくところだったのだが、街の書店がダメになってしまった昨今、こういろいろと本がある空間にいるのは愉しい。あれもこれもとなって、つい沢山借りてしまう。しばらく、図書館通いが続くうちは、たまにどんな本を読んだかくらいはここに書いておこうと思う。
それにしても、うちの区の図書館は、大きくはないがなかなか良く出来ている。ネットで予約とか出来たりしてびっくり。返却もレンタルビデオも真っ青の柔軟さで、これだと図書館があまり盛況だと本が売れなくなるという御仁の言うこともちょっとは分かるような気がする。
よくできたもんで、僕にとっては図書館にて「ピン」と来て借りてしまう本と、本屋で「ピン」と来て買ってしまう本は、ハナっから違うように出来ているらしい。借りてきた本を本屋で見つけてもおそらく買わないだろうし、買いたい本は最初の出会いが図書館でもきっと買ってしまうような気がするのだ。本を選ぶということはそのくらい奥行きのある行為なのだと思う。(もっというと、古本屋でのみ食指が動く本というのもある)結局、浜省のツアー本から親鸞の歎異抄の解説本まで8冊も借りてしまった。親鸞の本は電車のなかでフンフン言いながら読んでしまってなかなか面白かった。パンクだと思う。
借りた本の中に、現役の噺家の中でもなかなか好きでいる小三治師匠の書いた「落語家論」という本がある。良くある噺家本に書かれている内容が多いのだが、その中にあって小三治師匠の噺そのままの、実直で丁寧でいて、少々不器用で、己の弱さを知るような独白が綴られていて面白い。
師匠ってのは、弟子を育てるなんてのは出来ないぜ。もすこしくわしく言えば、いくら育てようとしても、育て上げるなんてことは師匠にはできない。オレの育てた弟子が駄目なわけがねえ、なんてわめいた御仁が先ごろもあったようだが、それは、人間が何たるかの見当すらつけられないのか、あるいは単なるのぼせあがりだ。
噺しか聴いたことがなくても、らしいな、と思う。そういうところが芸ににじみ出てしまうから、落語は面白い。
「緊急」か「緊急ではない」かの判断は、当の本人には難しい部分もあるのだ、ということは、この間救急車で病院に運んでもらった際に身をもって体験した。僕の場合も「結果的には」緊急ではなかったのだと思う。頭部裂傷で何針かを縫い、レントゲンでも異常がなかった。なにより、怪我を負ってから救急車を呼ぶまでは頭からは汗のように血が流れては落ちるし、「大事かもしれない」と思ったけれども、その後救急車が来てくれた頃には、「ひょっとするとたいした事ないのでは?」という気持ちになってしまっていた。あのときの救急隊員の人には非常に感謝しているが、同時に申し訳なかったなと思っている。もう少し冷静な判断ができたら、タクシーを呼ぶという選択肢もあったのかもしれない。何より、休みの日に何かあったときにどこの病院に行けばいいかということに関して、少々不勉強だったのもよくなかった。この記事の見出しを読んで、改めて有事のときこそ冷静でありたい、と反省した次第である。
ところが、読み進めると、「独りで寂しいから」とか、「9時に入院することになっているからあの病院に行け」とか「歯が痛いけど診察してくれる歯医者がわからない」など、ちょっとこれは…っていう出動要請があったりするらしい。びっくりである。そんなことで救急車を呼ぶ人が居るのか、と驚くばかりである。酒を飲んで搬送される人が増えている、というのも併記されているが、これはそのほかの事情とちょっと違うような気もする。急性アル中なのであれば、本人あるいは周囲の責任で飲みすぎたとはいえ、危ない状態であることも多いだろうと思うからだ。まあ、「家の前に泥酔者が倒れていて目障りだから救急車に”回収”を要請した」なんという話も聞くのでこれまた一概には言えないと思うのだが。(こういう場合は"0110(緊急じゃないやつ)"で警察に相談すればいいんですかねえ)
しかしながら、これらの解決策が「一部有料化」というのは、なんとも想像力が貧困な話ではないか、とも思う。救急車って何のためにあるんだということの根本を揺るがしかねない。金を払えば予約している病院への入院のために、タクシー代わりに使われてもいいということになってしまう。「罰金」のような意味合いでタクシーなんかよりはるかに高額な支払いを課す、というのだったら話はわかるのだが、「有料化」といってしまうとなんとも事業化するような意味合いにも取れて、座りが悪い。
現場に駆けつけて、明らかにこれは緊急じゃなくて呼んだだろという件に関しては、対処法をレクチャーした上で全て引き上ることを、その場その場の対応ではなくきちんとキャンペーンを打って宣伝した上で実行したらどうだろう。それを数年も続ければ、救急車という制度を利用する側のリテラシの向上につながると思う。それでも出動費用はかかってしまうのかもしれないが、適正利用を促すための投資だと思えば、税金が使われても僕はいいような気がする。「緊急でもないのに救急車を呼んでも、必ずしも連れて行ってくれるとは限らない」→「緊急時だけ救急車は呼ぶものである」というルールを浸透させて制度を使う側の質を向上させるのである。なんだか、たいした用もないのに呼ぶ奴が居るから、その分についてはお金を貰おうという考え方に安直に走るのは、こういう事業においてちょっと愛と志のない解決策なのではないかな、と思う。「救急事業」と書かれているが、ビジネスではないのだから。
ちなみに僕が救急車を呼んだときには、その前にとっさに電話帳で調べた区の「休日診療センター」の番号に電話をしたが、誰も出なかった。こういうところとも連携しないと、救急車だけの問題ではない。
ストライキが延期になったみたいだが、どうなることやら。もう、言い尽くしたので、ことさらに色々書いても繰り返しになってしまうが、それにしても、世論のストの反応のなかでびっくりしたのは「ストライキは迷惑だから止めて欲しい」というもの。なんか、こうも視野が狭いと言葉を失ってしまう。
ビジネスのスピードが上がってきているのに「ストライキ」というやり方は時代に合わない、などという人もいる。でも、ストライキって、経営を妨げるためにするものなのだから、ビジネスの機会を失って当然ではないか。なんかこう、景気が悪くなってからこっち、雇われている側であるにも関わらず経営者のような口を利くペーペー社員が多くなっているような気がする。まぁ、キミが社長だったらその物言いは正しいかも知れないけど、と突っ込んでやりたくなるような。わきまえろ、というのとはちょっと違う。なんかモノを言ったり力を入れる方向を誤っているような気がする。いつまでも中流のフリして強がるのと似ているような気がする。
まあ、ストはしてもしなくても、同じなんじゃない、っていうのが感想で。話し合いは結構だけどここまで来ると妥協の連続になって、「ちょっとずつ良くなっていくよ」といっても多分世間は待ってくれないだろう。
*「超高額所得者たちの労働組合」
なんか、北朝鮮の新聞に似てきた。オーナー変わっても「オレのプロ野球」って感じの物言いだし。
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「三菱車は、本当に×か」(交通タイムス社)を読んだ。 →紹介記事
どうしようもない本だ。
真相は追いきれていない、何らかの見解も示せない。 言い続けているのは
・幹部が悪い。普通の社員や販社の人間はいい人ばかり
・ヒステリックに叩くマスコミは腐ってる
この2点である。
どうも、“メーカーに嫌われたくない編集者と評論家”が、今後の広告収入を見据えて三菱を擁護しているようにしか感じられなかった。落としどころがあまりにも稚拙すぎて、信用できない。ひょっとしたら、広告はないが、三菱からいくらか動いているのかもしれない。発火騒ぎを過剰に騒ぎ立てるマスコミも問題かもしれないが、自動車ジャーナリズムはその上をゆくことを体現している。
確かに、連日燃え続けていた三菱車の報道を鵜呑みにしてはいけない。マスコミがバッシングに精を出しすぎたおかげで、真実の部分はなかなか解き明かされずにいる。だから本当のところ「三菱車」が本当に×か、はわからないのだが、少なくとも、自動車ジャーナリズムは×だってことは、良く分かった。
徳大寺氏と同じだが、「イエローカード2枚は退場」。僕の言いたいことは、それだけである。
忘れてはならないことは、つまらなくても、いくらイヤでも、働かなければ喰っていけないという事である。
そりゃ、朝早くに出ていって、自分より遅くに帰ってくる、ねずみ色の暑苦しそうな服を着て、わざわざ混んでいる時間の電車に押し込められていく。その後、父親が何をしているかよく分からないが、自分が晩飯を食い終わって一息ついているときに疲れた顔をして帰ってくる。程度の差こそあれ、中学生の目から見た父親の仕事など、そんなものだ。なぜそんなふうになってしまったか、それは、職の場が家庭から離れた事が大きいのではないか。そうなると、それこそ「今に始まった話ではない」のだ。
「拒否反応」とセンセーショナルな言葉を使っているが、中学3年の生活と例えばサラリーマンの生活だったらどっちが楽で面白そうに「見えるか」は、誰に問うても自明だと思う。今の職に就く意欲もない人の増加とこの調査結果とは一見関係がありそうで、僕はあまり関係がないと思う。面白い仕事がないから職に就かない、以前の問題で、彼等は僕が冒頭に書いた「働かなければ喰っていけない」という所を乗り越えられないか、スルーしてしまっているか、親がスルーさせてしまっているか、のどれかである。
多くの人が「やりがい」をもって「楽しく」仕事をやっていけるのが理想かもしれないが、現実は、ヒイコラ云いながらなんとか口を糊している人が多数派ではないのか。やりがいも結構だが、その前に勤労は義務なのである。
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ちなみに、僕が中学3年生のときに同じ質問をされたら、おそらく「親と同じ仕事はイヤだ」と、あまり考えもなしに答えてしまうと思う。それから15年ほど経って、結局は同じではないが似たようなものになってしまったが、僕は現状に不満もないしつまらないとも思っていない。「やりたい仕事」に就く云々は、そんな単純なものではないと思う。自分の子供に僕の仕事を「イヤ」といわせたいとも、いわれたくないともあまり思わないし、もちろん僕の仕事と同じ仕事に就いて欲しいとも、欲しくないとも思わない。肝心なのは、何の為に働いているのか、そして生きる為にまぁ一生懸命に働いているってことではないのか。そこらへんは、うちの父からもかろうじて伝わって来てはいた。
父を除くと父方の親戚は全員教員であったが、その面子を見る度に僕は教員にだけはなりたくないなと思った。人はみんないい人なのだが、よくいうとコンサバティブ、まあつまりガチガチで柔軟性がなさ過ぎるのである。だからとれる免許も取らなかったし(取ったら就職が決まらなかったときにコネでねじ込まれそうなので)、イヤだったなあ。この「イヤ」というのはこの調査で中学3年生が言っている「イヤ」とは全く異質のものだけれど。
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何箇所かの盛況なサイトで取り上げて頂いたため、ここ数日アクセスが10倍くらいになって驚いております。ありがとうございました。
月曜日はみんな疲れている。なんだか電車の中の座っている人々も、普段の日よりも眠っている人が多いような気がする。しかし通勤電車ってなんで月曜日が一番混むんだろう。月曜日には意を決して出社したものの、火曜日水曜日…と日が進むにつれてダレちゃって疲れちゃって、そのうち会社に出て行くのがめんどくさくなってしまう人が居たりするのだろうか。月曜日の混み具合ほどハッキリしてはいないけれど、金曜日は心なしかすいているような気がする。その代わり金曜の夜遅くは激混みだけど。金曜日はさっさと帰るに限る。ダラダラ仕事して、くたびれて酔っ払いに囲まれて帰るのは御免である。
そういえば東京で仕事をするようになってから、「5当日」の意味がこの目でわかるようになった。5で割り切れる日になると、道路にまるでタイマーがセットされたロボットのように車がどっと溢れてくる。25日の金曜日、30日の金曜日などはそれにさらに拍車がかかる。季節を感じることがなかなか出来ない都心において、バスの歩みが遅くなると、ああ、もう月末か、と月日の流れるのを知らせてくれる無機的な風物詩のように感じる。
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斉藤和義「十二月〜青春ブルース完結編〜」に行くことにした。というか妻に引っ張られつつ、という感じなのだが。武道館で弾き語りって言うのが解せないので、何でせめて国際フォーラムくらいにしてくれないのだろう。あ、それじゃ広島球場でギター一本でやる奥田民生の立場がないか。でもまあ斉藤和義のライブは初めてなので。
ジャニス・イアンのときにも感じたが、弾き語りはボロが出やすい。満足なそれを聴かせることの出来るミュージシャンはなかなかいない。真実を見ることも大切だが、適当ににぎやかしでわーっと楽しめればそれでいいやライブなんて、と思うところもあり。小さいハコだと多少のミスは熱気でチャラになるが、変な話何万という客をいっぺんに動員すると客一人一人の当事者意識ってモノが薄れる。薄れるか、もしくはミュージシャンのアクトとはあまり関係のない部分で単に盛り上がった「お祭り」となってしまう。そういう神輿になかなか乗ることができない僕は、エネルギーが散ってしまいそうな大きなハコだと、時として熱が下がって「辛いアクト」になってしまう。好きなミュージシャンの辛いアクトをあまり見たくはないのだ。
斉藤和義は「十二月」という弾き語りのライブ・アルバムが出ていて、良く聴いたものだが、出来はよい方なのだと思うがやっぱりちょっと後半唄が辛くなる。さて、今回はどうなりますやら。その点では、山崎まさよしの「ONE-NIGHT-STAND」が邦楽弾き語りライブではベストだと思う。山崎まさよしはギターを持たせると別格で、バンドを背にしているときの方がかえってつまらない、と思う。
宅間守死刑囚の死刑執行のニュースは、突然飛び込んできた。確定してから異例の早さだという。そして、聞く所によると、これは「遺族の希望」であり「本人の希望」でもあり、「社会的感情を考慮した」結果だという。死刑執行の時期について、死刑囚および被害者の意向が反映されるなんてことは、ついぞ知らなかった。とんだパフォーマンスであり、お笑い種である。
僕はこのニュースを聞いて、真っ先に思い浮かんだのは「臭いものには蓋」という諺である。なぜ、この猟奇的で恐ろしい犯罪が起きてしまったのか、そしてどうしてそんな犯罪を起こすような人間が出来上がってしまったのか、その糸口すら見出すことなく、宅間守死刑囚の刑は執行された。死人に口なしとは、まさにこの事である。
学校のセキュリティをもっと強固にしましょう、という以外、この事件から教訓めいたことはなにも見えないのだが、本当にそれでいいのか。それでいいのなら、2人目、3人目の宅間守が現れるのに手をこまねいているだけとしか言いようがない。多分そのうち、また「キチガイ」による猟奇的な事件が起き、犯人が捕まり、死刑が執行される、その繰り返しになるだけではないのか。
「罪を憎んで人を憎まず」というが、今回のこの例は、まさに「人」だけを先に裁いてしまった。怒り狂い、嘆き悲しむのにかまけて「罪」の部分は置き去りである。宅間死刑囚の思う壺であろう。
断っておくが、僕は死刑について反対しているわけではないし、死刑廃止論者ではない。宅間死刑囚の犯した罪に対しては、現行法では死刑でも不足だがまあ仕方がない、位に思う。ただ上に書いたようなことは、どのような刑に処するか、とは違う次元の話である。
うちの会社のトイレは快適だが、少々普通のトイレに比べて小さいほうの便器のサイズが大きいような気がする。そして用を足しながらふと視線を落とすと、American Standardって書いてある。ああそうですか、どうもすいません、って気分になる。快適だから、いいんだけどさ。
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ここ2,3日はまさに惰性で生きてます。惰性で生きると一日が経つのが早い。朝起きて電車乗ってバス乗って会社についてやることやってバス乗って電車に乗って帰って。淡々としているのとちょっと違って、中身がない感じで、あれ、もう夜?という。休み前っていうのもあるんだろうけど。眠れなかった日々が少々懐かしい。
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社員食堂で、ディスプレイを前にして今日は何を食べようかと考えている人が多数居るが、僕はもうすごく現物主義で、ほとんど気分で、カウンターの上に並んでいるものの中で食べたいものを端からとって会計に向かう、というようなことをずっとしていたのですが、最近「食べたいもの」すらあんまりなくなってきて、ここのところご飯と汁物とサラダしか食べていない。昨日はご飯、味噌汁、豚汁、漬物とかいう組み合わせに無意識にしてしまって、レジのおばちゃんに「本当にこれでいいの?」というような顔をされた。食べることにあまり感じなくなっている。高校のとき、昼飯は弁当だったのだが、あの冷凍の揚げ物ばっかりに飽きてしまって、ほとんど餌を食べるように食べていた感じに似ている。
たぶんそういう時期なんだと思う。舌も鈍いと。そういうときに限って外に食事に行く約束がいくつかあったりして、ちょっと勿体無いような気がする。
明日から夏休み。
折角天下ってラクチンかと思いきや、降って湧いたようにいろいろな問題が起きて、「とんだ戦時に巻き込まれた(読売の報道より)」のコメント残して逆切れして辞任か。お目出度いことである。ここで辞めようってのは当事者意識のない表れだなあ。こっちから願い下げだって誰か言ってやれよ。それにしても、各マスコミは選手会&ライブドアバッシングに躍起で、まあ、既得権益を守るために必死ってところでしょうか。今朝の読売なんてすごかったからなあ。「選手会=ファンの敵」っていう図式をつくろうと無駄に紙面を割いて報道している。それ見て、ああやっぱり駄目だなと思った。
これを機にファンは失望して選手はやる気が無くなって、選手も人気もMLBの方に本格的にシフトして、日本のプロ野球自体が崩壊してくれることを切に望みます。こんなお荷物が「文化」だなんて、ちゃんちゃらおかしいです。日本の野球少年諸君も、メジャーの方が面白いって。早くお父さんとお母さんに頼んでCSアンテナとチューナーを買ってもらいましょう。
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世にも恥ずかしいCDもどきが出なくなる、という点では、喜ばしいことのような気がしますが、ふと「風が吹けば(誤:雨が降れば→雨が降ってどうする)桶屋が儲かる」的に思いをめぐらすと、これでiTMSの日本上陸は果てしなく遠くなってしまったのではないだろうか、なんて思ってちょっと複雑です。
それにしても
>コピーコントロールCD(CCCD)の取り組みが一定の成果を得た
この「一定の成果」っつうのは
・こういうのを作るとお客から非難轟々
・それによってCD全体の売り上げはさらに下降
ってことですかね?
SMEの言っている「著作権に対する消費者の理解が深まってきた」というのは、皮肉を言えばあながち嘘ではない。今後に注目です。
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田代まさしがまたクスリでつかまったようだ。
*田代まさし容疑者、覚せい剤と大麻所持で逮捕
クスリでつかまった人の処し方について、見直したほうがいいと思うのだが。この前の清水某にしても、既に何回目の再犯なのか分からないほどである。クスリをやる奴が悪い、と糾弾するのは簡単だが、彼らに下された罪、というものが、それからクスリを使わない方向に本当に誘導しているのか、はなはだ疑わしい。このニュースを見て、田代はしょうがない、とか言う前に、初犯だと執行猶予がつく有罪で、次から実刑で、そこにクスリから抜け出す方向付けがあるのかどうか。こういうのは罰だけで裁くと同じような人間の再生産を阻むことは出来ないのだ。流れ作業的に牢屋にぶち込んで出してそれで終わりでは、それこそ税金の無駄遣いであろう。極端な話、捕まった奴は何をしでかそうがすべて即死刑、とかの野蛮で簡単な刑罰の制度のほうがよっぽど分かりやすくて、効果も上がるように見えるのだがどうだろうか。
世の中、バカな奴は沢山いる。しかも、自分だって他人から見ればバカな奴なのかもしれない。しかしながら、あいつはバカだバカだといって、指を差して糾弾しているだけの奴が多すぎる。信用できない。人間は理屈通りに動くことはけして出来ないのに。
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他にもいろいろあるのですが後で書きます。
これは本日15時台ソース産経のニュース
*楽天社長 大阪本拠、週内にも申請
そして17時台ソース読売のニュース
*楽天も宮城本拠で参入、24日に申請
この2つの食い違いは報道する側の策略か?それとも楽天の参入案はこんなにフラフラしているのだろうか。
どっちでもいいけど、本気でいろいろ交渉しての結果だとしたら、一日でメディアによってこんなに書かれ方が違うのは、楽天さんは「お行儀」を知らないといわれてもしょうがないだろう。根回しって知ってる?こういうところが見えると、なんだか参入の目的ってなんだろうって思ってしまう。って思わされるのは既存マスコミの思う壺なのか。いかんいかん。
livedoorとか楽天が参入することに関して、イマイチしっくり来ないのはこの辺なんだろうなあ。こういう「お行儀」は参入基準に明文化されているんだろうか。いないんだろうけど。
下卑た尾篭な例えで恐縮だが、大便や小便を我慢せいと言っているのと本質的に変わらないと思う。トイレの行き方と作法こそ教えるべきなのでは。こういう発想が出てくるのは要するにめんどくさいんだろ?すべてを放棄したくてたまらない大人が自信がない証拠。他にパクらなければならないことは沢山あるのに。情けないし意味がない。「幾つでエッチがOKか」なんてそんなもん、年齢で切れるほど無神経なモンダイではないだろう。一般的な「目安」がないことに無理やり「目安」をつけようとすると、ますます混乱するとしか思えないのだが。どうせ16からOK、とかになるんだろう(女子は16から結婚できる)けど、だから15までダメとかにすると、それこそこういうことを考え出した志はどこに行ったんだ的な結果になる。こんなことを考えて成果が出たような顔をして給料を貰ってるのは税金泥棒だと思う。「解禁」のタイミングで各地でPartyが開かれそうな予感。それをテーマにしたAVとか出来ちゃったりして、またまた大人は一儲け。
若かりし頃、「条例」で「制限」されてたら、果たしてあなたは守りましたか?分別のある立派な大人の皆様方。
※こういうことに一も二も無く賛成するのはそもそもそういう「機会」のめっきりなくなってしまった人たちだと思うがどうか。
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この前東西線に乗っていたらベビーカーの子供をつれた母ちゃんが乗ってきた。電車が動き出すとむずかる子供はビービー言い始める。子供が振り返ると僕と目があったのだが、ビービー泣いている子供を前にここでただでさえ怖い顔の僕が普通の顔をしていたら泣くだろうなと思うから、妻とふたりして精一杯作り笑いをしてみた。すると目を合わせているときだけはビービー言わないのですよ。可愛いもんだ。
で、子供の周りにいる人のなかで一番怖い顔をしていたのは、母ちゃんだったのですよ。けして空いているとはいえない車内に、むずかる子供を伴って乗ってしまった申し訳なさと必死さがにじみ出ているわけですよ。その母ちゃんの顔を見て、僕はちょっと切なく気の毒になった。世の中の空気がそうさせているのだとすれば、なおさらだ。
別にその車内にそれを怪訝に思った表情や言動をした人はいなかったのだけど。
どうも、何でも禁止すりゃいい、制限すりゃいい、マナーってことにすりゃいいと思っているのが多すぎる。それで解決すれば世話はないが、此処ではいけないんですダメってことになりましたそれはマナーでしょうってわめき散らしたところで目の前の泣いている赤子が泣き止むのか?子供の声は親のマナーの問題だと言い切る奴、新幹線の同じ車両で子供が泣いているのを散々ケチつけて子連れは別の車両に詰め込めと云う奴、鳥の脳味噌に近づいてるのか。
明日で10日間の休みが終わり。特に予定も無く、家を掃除したり車でプイとどこかへ出かけたり、近所のいなげやなんか毎日通って、昨日のたまねぎよりも今日のたまねぎの方がものが良いぞなどとやっていた。その割に無精髭をほったらかしてだらしなく。休む前から、無理やり予定を作って何かするのをやめよう、と思ってたし、結果的に毎日昼過ぎまで寝ていて食べ物は3食コンビニ食で、妻と生活時間帯が合わなくなって怒られてもいいやと思っていた。10日もの間のそういうだらしない生活が許されるのは久しぶりだったので。昨年まで5年近く、有休なんてマトモに使ったこともないし。今年は良く休んだ一年だった、と早くも今年を振り返るモードに。
出かけるといってもお決まりの丹沢湖と、海が見たくなって久里浜に行った。一年にこういうことってたぶんあっても両手の指で足りるのだが、プイと出かけることが出来るこの喜びのためだったら自動車税も重量税もガソリン税も惜しくない。車ってこういうときのためにあるもので、けして荷物を満載にして買い物に出かけるためのものじゃないと思う。
64,000km走ってなお206は普通に調子が良い。流石に最近「オマエホントにフランス車か?」と問いかけたくなる。実は僕のだけ日本製でトヨタの工場で作られた奴だったとか。あ、でもちょっと2速の入りが渋いのが気になった。こういうのは日によるのでなんとも言えないし、ギアがスコッと入らないのは今に始まったことではない。機械としての旬はそろそろ終わりに近づいているので、また第二第三のリフレッシュを施さねば、とは思うけれど、スニーカーにたとえれば、マラソン大会や遠足に起用できる「履き慣れた靴」の身分になったのは最近のような気がする。
でも、流石に10日も予定も無く、ついでにそんなにお金も無く、家で本を読んだり音楽を聴いたり楽器を弾いたりしているのは体にはいい休みになるかもしれないけど心にはけして良くないということも分かった。せいぜい僕の場合は5日くらいが限界で、この休みは後半になるとずんずんテンションが落っこちているのが自分でも良く分かった。久里浜には昨日行ったのだが、そら車を運転して、山国育ちの悲しさで、海岸線を窓を開けて流しているときは気持ちも穏やかなのだが、戻ってきて部屋に一人きりになるとテンションは落ちる。その気の紛らわしもかねて、この休みは良く料理をした。
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青春って1、2、3 ジャンプ あの娘だけの汗まみれのスター
って唄ってるのを聴いて、ああ、あの頃は馬鹿だったよなあ、と思った。馬鹿だったけど無駄ではなかったのだなあと。
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まあ、いろんなところで云われていることだけれど、楽天の動きって唐突かつ性急で、また彼らが参入を表明してからメディアやNPBの対応がコロッと変わったところから見ると、結局彼らの後ろで誰かが糸を引いていそうな予感はあったわけで、それがあの爺さんっぽいことがこの人選でさらに濃厚になったわけですが。しかしパ・リーグに小さな巨人を作って、それが来るべき1リーグへの布石とは、考えたものである。そのうち球団に読売が出資したりして。一般大衆に気づかれずに成し遂げたら一発逆転ホームランですな。
「小さな巨人」に引っ掛けて大塚製薬が協賛したら面白いかも。新庄のオロCのCMは一年限りってことで。
昨日はNスペで少子化の番組をみてそれのことを何か書こうかなあと思ったんだけどやる気がなくなってやめた。なんだかそういう気分にさせる番組だったとだけ記しておこう。もう足踏みは見飽きました。
今朝は寒かった。スリーシーズンの上着のボタンをちゃんとしめて外に出たのにあれなんでちょうどいいの?てな具合に。空気の匂いが変わってきた。今日はみなさん着ているものがまちまちでそのくせ電車は冷房ガンガンで、立っている前に座っていた学生ふうの女子はぶるぶるぶるぶると、渋谷までの35分間ずーっと震えっぱなしで見てないけどありゃ絶対クチビル紫色コースだな、とか思った。プールの時間なら強制甲羅干しだ。
借りてきたCDを全部PDAにぶち込んでランダム再生して家を出たら岡村靖幸とエレカシとジャニスイアンと浜省とドゥービーが交互にかかってそれはそれはもう朝からどういう顔して会社に行ったらいいか分からなくなった。
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会社に行ったら隣の席の人は僕が休みに入る前と全く違う仕事をしていて僕のメールボックスには100通くらいのメールと3つの新しい仕事が入っていた。メールを処理する能力をもう少しつけたいけど、それ以上になんだか件名ってやつをいい加減につけすぎだよなあと思う。そりゃもちろん自分が他の人にメールを書くときへの自戒を込めた意見であるのだけど。事務的で簡潔だがこれはキャッチコピーなのだから何がどうたらの最低限のことを伝えて欲しい。「お伺い」だけの件名のメールとか来るとつい後回しにしてしまいがちだがそういうのにかぎって爆弾が入っていたりするのだ。爆弾処理の優先順位、よく相手に優先順位を悟らせる件名をとかいうがあなたの優先順位は私の優先順位じゃないよというか、そりゃきみはスタイルよりタヌキ顔のほうを取るかもしれないけど僕はやはり丸いお尻は譲れないみたいな、そういう各自の高校の卒業アルバムを回し見しつつ過去を勝手に品定めという、大学デビューをたくらむ童貞男子のような水掛け論になってしまうので必要ない。どんなつまらんメールでも、スパムメールでも最初に見て欲しがってやってくるのだから。
何人かと話をする。10日間ずっと家にいたので人の視線が恥ずかしい。
仕事は早めに終わったのだが人待ちがあったり目を通さなければならないものがたまっていたりで結局居残り。帰りは雨も上がっていたけど埃が混じったような夏の雨の匂いはもうしないのだ。少しだけもやった山の手どおりを怠惰に走ってきたバスに乗って家に帰る。帰りは統一を取るために岡村靖幸だけを鳴らして。渋谷の街を通り抜けながら聴くとなんだか僕の知らない渋谷をそっとめくって見せてくれたようなそんな気がするのだ。電車の中で喉仏に手をやると僕の休み気分が一本剃り残っていたのを発見してばつが悪くなって抜いた。けれど心境に変化はない。
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金曜は出張。またつい面倒くささにかまけてツカえないえきねっとで切符を取ってしまった。文中リンクがない日記は久しぶりだなあ。
今日はスタミナ使い果たしました。しかも一番やらなければいけないことを忘れて帰ってくる有様で。
渋谷の南口バスターミナルのところには、だいたいいつも串焼きの屋台が一軒だけ出ている。小汚い屋台なのだが、タダでさえ、空腹がちの帰宅時、ああいうものは目の前で焼かれると100倍くらい旨そうに見えるのだが、串焼きを携えたまま電車のホームに向かう勇気はなく横目で見ながら通り過ぎるだけだ。周りを見るとだいぶ「うまそうだと横目で見ながら通り過ぎるサラリーマン」が多い。そして屋台の前でブツを買い求めている客を、みたことがない。
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あーもう、これすごいね。
なんだか、玉山鉄二の身に起きた"逆境"という感じだ。「心の声を大切に、割り切って勢いでいくしかないですよ」という分かったような分からないようなコメントも、虚ろさを映し出している。あーなんでおれにこんな役回って来るんだよ、てな感じかな。見てみたいけど、あの漫画は超えられないと思う、たぶん。
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*これが私のソースカツ丼だ!(デイリーポータルZ)
ご飯粒がソースまみれなのもそれはそれでうまそうだが、この桐生市のは「ソースカツ丼」と言わないと出てこないのだろうか?僕の出身地ではカツ丼というとソースカツ丼が出てくる。普通のカツ丼は「煮カツ丼」である。僕はカツ丼とはソースカツ丼だと思って育ったため、いまだに煮て卵でとじてあるカツ丼には少々抵抗がある。うまいんだけど、キャベツがないとさびしい。カツ丼は、鋭い衣でたまに口の中を怪我したりしながら食べるのがいいのだ。
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「おりおりのうた」の前身から数えて来月で丸7年になる。WEBサイトの昔の姿が見れるarchive.orgで見てみると懐かしいレイアウトが出てきてちょっと感慨にふけってみる。流石に前身のサイトの姿は出てこないが、それでも十分懐かしい。掲示板のログなどを見ると、いろいろな人が見に来てくれていたのだなあと思う。みなさん、どうしているんだろうかと思ってみたり。

■1998/12

■2000/8

■2001/5

■2002/7
当直の件など、村側と医師側の言っていることが微妙に食い違っている点もあり、辞めてしまった医師の責任を追及することの是非はこれらの記事からはなんともいえないと思う。ドライに考えたら、不正を行って負債を抱えさせたりするならいざ知らず、もし本当に約束が違うのであれば、辞める、と言われても仕方がないと思うが。医師に限らず、あらゆる仕事においてそういうものだ。ただ、ソース中の村側のコメントで、支度金に100万、宿舎改修に450万云々のコメントが出ていたのを読んで、はて認識が甘いのは果たしてどっちだったかいな、とは極めて個人的に思った。
泉崎村のページ:→
上の村のページには、現在は消されているが昨日は非常にあてつけがましく「地域医療に理解のある医師急募!」の文字がトップページに躍っていた。それが功を奏して(?)か、掲示板を見ると何人かの医師がすでに名乗りを挙げているようである。僻地の医療に対して熱意のある医師がいるのは結構なことだが、この種の問題はこれからどんどんいろいろなところで起こっていくだろう。
病院に限った話ではない。これからもっとさまざまな社会的なインフラについて、こうした問題は起きてくるだろうし、人口の減少が著しくなるであろうこれから、インフラをそろえることが出来ずに廃村・廃町・廃市になるようなところも、もしかしたら出てくるかもしれない。
泉崎村はニュータウンを造成して、東京までの新幹線通勤費を補助するというネタでテレビにも登場したりして、人の頬を札束で叩くようにした人集めに躍起なようだ。→しかし、人が集まるところに、社会的インフラが出来るのが常だったが、これからは社会的インフラのほうに人が近づいていくようにしないと、安易に「田舎でのんびり」などと考えていると自分の生活は護れないと思う。そういう点では、この種の問題はモグラ叩き的にも思えてあまり深追いしても益少なし、と思える。冷たいようだが、人口が減少に転じれば、どこか消えざるを得なくなるところが出てくるということだ。そして益の少ない対症療法にあまりにも公のリソースを利用されるのは、自分を護るように暮らしている身としては非常に割が合わない思いもある。
今日は空がきれいだった。窓から見える風景は、すこしスモークがかかった暗い風景になっているのだが、今日の空の青さはそれに負けない感じ。台風が去って、やっと「秋の空」という感じの青がやってきた。運動会のとき、組体操でひっくりかえって見た空の色。
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うーん、そうだろうか。それぞれが自前のインフラ持って戦えば、通信なんて企業用の品質がシビアに問われるものを除けば、だいたい「安い」ところが「勝つ」のでは。(安くなりしろが多くあればの話だが)安い以外の付加価値を見出せるユーザに支えられるプレーヤーは、おそらくフォロワーの方に回ると思うんだが。ちょっとこのマーケティングを勉強し始めた学生でも吐ける様な台詞を安易に言い放ってしまうのは、大企業のお偉いとしてあまりにも品がないような気が。
「端末やコンテンツなど総合力の勝負」なのは今のあまりにも閉鎖的なキャリア主導の収益モデルが維持できればの話で、端末やコンテンツを乗せるプラットフォームがオープンになれば、キャリアに入る実入りなどたかが知れるようになると思われる。そこを守れるかがカギだろう。
とはいえ、SBはBBTVの件もあってコンテンツホルダにはかなり嫌われてるらしいので、なんとも云えないところもあるが。Yahooのポータルとの連携には乗り気だが、通信サービスと絡めるとどこも下を向いてしまうような状態はまだ続いていると聞く。
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ちなみに僕の携帯にはマイメニューは一つも登録されていない。お金を払って得られる情報は、殆どがWEB経由なら無料だからだ。「携帯でなんでも感」に陰りが見えている昨今、さらに利用者が賢くなれば、ドコモ社長のいう「総合力」はおそらく屋台骨から揺らぐだろう。僕の周りでもお金を貯めようと決意してドコモから他キャリアに切り替える人を多く見る。「携帯に割いていた費用」が必要経費からムダなものへと変わり始めているのだ。お財布ケータイとか、地デジの放送とか、日常使うイメージすら僕自身の生活には湧かないし、必要ない。大体、持って歩くものに過大なリスクを負わせようという考え方が、わからん。後生大事に抱えて持ち歩くのは財布だけで手一杯である。